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大河ドラマ編

vol.2 四強戦争の勝利は組織改革にあった?

前回私の思い出のある大河ドラマ「花神」(1977年放送)のお話しをしました。幕末の長州藩(山口県)を大村益次郎(村田蔵六)を主人公にして描いたドラマでした。

 

日本陸軍の創始者、村田蔵六(後の大村益次郎)

 

大村益次郎は「日本陸軍の創始者」でこれまでの古い日本の軍隊を西洋式に変革していった人です。ではお侍さんかというとそうではなく村医者の息子でオランダ医学を学んで翻訳家の仕事をしているとそれが西洋の兵書の翻訳が専門になり、兵学家となったのです。したがって自身が刀や槍がすごいとか腕っぷしが強いわけでもなんでもないのです。
そんな人間が、長州藩の軍事参謀となり徳川幕府軍との戦いを勝利に導くのです。そして徳川幕府はこの敗戦がきっかけで滅ぶことになります。この戦争(1866年)を第二次長州征伐(長州藩の立場では「四境戦争」)といいます。

 

 

日本陸軍の創始者、村田蔵六(後の大村益次郎)

幕府軍10万に対し長州軍は5000。絶対的不利の中で大村は参謀となり藩の軍政を西洋式に改革し、長州藩は勝利するのです。大が小に勝つ!!私自身が「花神」というドラマ、小説の中で一番好きなところです。

なぜ長州藩は勝利できたのか?当時の最新式の銃、「ミニエー銃」を導入しました。これには坂本龍馬の亀山社中、薩摩藩の協力があったのは有名な話です。これで長州藩は戦術的に大きくアップしました。
「ミニエー銃」はライフルです。火縄銃で100m、ライフルで500m射程距離が違う。命中精度も5倍以上おそろしくスゴイ。火縄銃一発撃つ間に5発撃てる。そのライフルを有効利用したのです。

 

しかしそれはハードの改革でソフトの改革が大きいのです。それは「散兵戦術」です。散兵戦術とは、兵士を密集させず、散開させて戦わせる戦術です。少数の兵で多数の兵に立ち向かうことができました。散らばった兵士は林などの陰に隠れながら銃を持って敵に向かっていきます。これは命中精度の高いライフルがあるからこそ実行できることです。旧式銃だと横一列に並んだ兵士が一斉に撃たなければなりません。従来の火縄銃やゲベール銃では玉がどこに飛ぶかわからない故、密集して「構え!」「撃て〜!!」の号令で一斉射撃したのです

 

 

日本陸軍の創始者、村田蔵六(後の大村益次郎)

しかしこのソフト面の改革は当時実行するのは極めて困難なことだったのです。これまでの戦の中心であった「武士」の否定につながるからです。当時の武士は戦をするにも格式が最重要です。恥じないように名を残すことが大事なのです。鉄砲を持つのは身分の低い足軽の役目です。にも関わらず、散兵戦術では小隊長となり自分も鉄砲をもち、5人から10人のリーダーとなって戦わなければいけないのです。多分当時の武士にとってはとても受け入れがたい屈辱だったのではないでしょうか。
藩主毛利敬親は、重大な方針を家臣に告げました。「兵制は西洋陣法を採用!!」これによって長州藩には主従による武士集団は消滅。長州藩はしがらみをすべて捨て、西洋式の軍事改革に突き進むことになったのです。(先日NHKのBS放送で大村益次郎の番組やってたんで非常に面白かったですね〜。)

 

散兵戦術に翻弄された幕府軍兵士はこう言っていたそうです。「敵は卑しい黒い装束で、ミニエー銃を持ってあちこち5〜6人が隠れて撃ってくる。賊徒同様の振る舞いだ!!」長きの間戦をしていないもので正々堂々したところもあったんでしょうね。そういう意味では戦国時代よりスゴイ。長州にも名乗りを上げながら敵にむかう武士の描写も大河ドラマ「花神」ではあって何ともコミカルです。そして大村自身もとても参謀トップとは思えない浴衣姿で、淡々と指揮をとっておりそれも面白いのですね。

 

単に性能の高い武器を持つだけで勝てるわけではないのです。その武器を使用するのはあくまでも人間です。その人間集団であり組織なのです。幕府軍も長州軍同様最高の近代式軍隊を持っていましたが結果敗北し幕府は滅亡していくのです。人間が変革しない限り大きな効果は得られないのは現代も同じだと思います。最新式の設備を導入したも上手くいく会社とそうでない会社があるのではないでしょうか。何事も絶対的な不利な状態になったときに変われる組織と変われない組織があるかと思います。そして変われる組織が不利から脱却できるのですね。私たちも今までの常識にとらわれず、抜本的改革変革をおそれず前に進んでいきたいものです。

 

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